厳島神社と御祭神


 宮島は古来より厳島と言われてきました。
もっと以前、古名は墨松島または恩賀ノ島、御香島【オカジマ】霧島、我島【ワガシマ】といった事が伝えられていますが、古来から、「市杵島姫」をイツキ祭る島、島全体が姫神をイツキ祭る神島として「イツキシマ」と言ったのが正説のようです。
 
 対岸の大野と大野の瀬戸【海上約3km】を挟み、周囲7里【約30km】余りの島で、島の最高峰は弥山【ミセン】と言いますが、古名は御山【オヤマ】=神のおわす山、と呼ばれ弘法大師が修行場として頂上の地を選んだことから霊場の須美仙山にちなみ【ミセン】となりました。
 
 弥山からは瀬戸内の島々、遠くは四国の山々も見える事があります。
島は、神ノ島として樹木の伐採を禁じてきたため原生林におおわれ、古来から人々が住むことはもちろん、神主でさえ島外に住み、船で通っていました。
 
 中世以後、住めるようにはなりましたが極端に不浄を戒め、お産や葬式等も島内では禁じられていました。
現在でも、墓地は無く、火葬場もありません。
 
 
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 神社の創始は、およそ1400年前 推古天皇の頃に、安芸の住人佐伯鞍職【さえきのくらもと】が天皇に奏上して造ったと伝えられています。
 
 そのいきさつは、
 
 当時七つの美声で鳴く鹿がいるとの評判がたち、天皇が「誰か、あの鹿を捕らえて見せてくれないか」と仰せになりました。
朝廷に仕える公卿たちは誰も行こうとしないので、宮廷警固の役人であった佐伯鞍職が、この役を買って出ました。
鹿は素早く、なかなか捕らえられません。そこで鞍職は「見たいとの仰せなのだから、生きたままでなくても良いのではないか」と考え、弓矢で射て捕らえました。
この行動を、妬みもあってか、公卿たちは、「この鹿は黄金の鹿で、神の使いである。重罪にすべきだ」と申し上げ、天皇も鞍職を重罪人として、安芸国の沙々羅浜(広島県大竹市)に流しました。
鞍職は、役人の生活から一転して片田舎の生活になり、困ってしまいました。
 
 それから2ヶ月あまり経った頃、黒松島(厳島)の西方より、紅の帆を張った船が3人の姫を乗せてやってきました。
鞍職は、姫から、「我々は元々西国にいたが、思うことあって遥るばるやって来た。この地に住もうと思う故、これより我が住むべき適地に案内してくれ」と頼まれたので、
黒松島(厳島)の七浦をめぐって案内したところ、三笠の浜【今のご本殿のある所】に来たとき「あらうつくし」といわれた。
この事もこの島を「いつく島」と呼ぶようになった所以の一つとされます。
 
 鞍職は、姫から本殿を造営し、自分を厳島大神として祭るようにいわれましたが、重罪人である上、朝廷に申し上げて許可をもらうためには、相当の理由、霊験などがないと不可能である事を述べました。
姫は、「汝が宮廷に奏上申し上げる時刻、宮廷の艮の空に客星の奇妙な光が出現し、宮廷の公卿たちを驚かすであろう。その時多くの烏が集まり、宮廷の榊(さかき)の枝をくわえるであろう。その事を証拠とするよう約束して、奏上せよ」といわれ、鞍職はこのことを天皇にに奏上しました。
その時、まさに姫の言ったとおりのことが起こり、天皇は感激せられ正しい神託と判断されました。
この事で、この地方の郡名が佐伯郡と定められ、鞍職は厳島神社の神主に命ぜられました。
  
 
 
 厳島神社の祭神は、田心姫【タゴリヒメ】、市杵島姫【イツキシマヒメ】、多岐津姫【タキツヒメ】で、市杵島姫が主祭神として祭られています。
 
 
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 神社の創建は推古天皇の時代となっていますが、それは現代の社殿で、それ以前、神武時代、島の山頂に市杵島姫一座だけ祭っていたといわれ、神武天皇が大和に都を建てた後、他の二女神も追加して祭ったと言われています。
 
 三女神は姉妹と言われていますが、では長女の田心姫命と三女の多岐津姫命はどこで主祭神として祭られているのでしょうか。
 
 田心姫命は、厳島神社の神主になった佐伯鞍職が住んでいたと言われる、大竹市元町四丁目に大治社という古い社【ヤシロ】があり、そこに祭ってありました。
ちなみに、佐伯鞍職のお墓が大治社の裏山にあり、また推古天皇が鞍職をたずねて来られた時植えられた桜の木が「推古桜」といわれており、今もお墓の近くで何代目かの桜が花を咲かせ、そこに建っている塚を「桜塚」と言うそうです。
 
 また、多岐津姫命は、その推古桜のある地を弥ケ迫【イヤガサコ】といいましたが、579年その地に鎮座されたのを創始とされ、約1000年後(1570年)に七ツ畔【ナナツグロ】(大竹市白石二丁目)に移り「田中大明神」と呼ばれておりました。そして、今から約280年前(1740年)に歯朶山【シダヤマ】(大竹市白石一丁目)に移り「大瀧神社」と改称され今日に至っています。
  「大瀧神社」は流れ造りの本殿、祝詞殿、拝殿等はその偉容、景観ともに近郷随一、心のふるさと、大竹の氏神様として信仰をあつめているそうです。
この大瀧という名前も近くの県境を流れる小瀬川が、その昔「おほたき川」と言われていたこともあり、大竹は「横竹」「大瀧」と書いた史実もあります。
 
   

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